【先んずれば即ち人を制す】と訓読みされまして、何事も人より先に行えば、人より有利な立場に立つことができるというたとえです。
『史記』項羽本紀にでてきます。
秦の始皇帝が亡くなって二世皇帝の元年七月、陳渉らが大澤郷(ダイタクキョウ)で兵をあげた。
これを契機に国民の不満が爆発し、容易ならぬ情勢となった。
その年の九月に、会稽の太守(郡長官)であった殷通(イントウ)が項梁を呼んで云った。
江西皆反,此亦天亡秦之時也。
江西は皆な反(ハン)す、此れ天の秦を亡(ほろぼ)すの時なり。
江西の地においては皆反旗を翻した。此れは将に天の秦を滅ぼさんとするものであろう。
吾聞先即制人,後則為人所制。
吾れ聞く、先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制せらるる所と為る。
吾はこのように聞いている「先んずれば人を制し、後るれば人に制せられる所となる。
吾欲發兵,使公及桓楚將。」
吾、兵を発し公及び桓楚に将たらしめんと欲す、と。
吾もお前と桓楚とを将として蜂起しようかと思うがどうだろうか、と。
人に先んじようとした会稽の太守ですが、項羽に殺害され、結果先んずることを項梁・項羽の叔父・甥コンビに許してしまいました。