生きている者は必ず死ぬ。仏教で人生の無常を諭(さと)す言葉です。
【生者必滅】は、【会者定離:エシャジョウリ】とペアで用いられることが多いです。
「平家物語」維盛(これもり)入水に【生者必滅】【会者定離】の形で記載があります。
聖(ひじり)もあはれに思ひけれども、我さへ心弱うては、敵(かな)はじとや思ひけん、
涙押し拭(ぬぐ)ひ、さらぬ体(てい)にもてなし、
聖もあわれに思いましたが、己まで心弱くなっては、どうしようもないと
思って、涙を拭い、何事もないようなそぶりで、
あはれ貴きも賎しきも、恩愛の道は、思ひ切られぬことにて候(そうら)へば、まことにさこそは
思し召され候ふらめ。
ああ、身分の高い者そうでない者も、恩愛というものは、断ち切ることができないのです、
あなたが妻子を思うのは当然のことです。
中にも夫妻は、一夜の枕を並ぶるも、五百生(ショウ)の宿縁と承(うけたまは)れば、
前世(ゼンセ)の契り浅からず候ふ。
中でも夫婦というのは、一夜の枕を並べるのも、五百生の宿縁があると申します、
前世からのつながりは決して浅いものではありません。
生者必滅、会者定離は、憂き世の習ひにて候ふなり。
命ある者は必ず死ぬ、会う者は必ず別れる、これ憂き世の習ひなり。
秋分(春分)の日が「お彼岸の中日」と言われるのには、いくつか説があります。その中の一つに、
秋分の日には、太陽が真西に沈むことから、その方角に「西方浄土」すなはち、仏様がいる極楽浄土の世界がある。という考えです。
日本独自の考え方だそうです。