親から授かった身体を傷つけることなく大切にすることが、本当の親孝行であるということを表しています。
『礼記:ライキ』祭義(サイギ)篇に
父母全(まった)くして之(これ)を生む、子全くして之を帰す、孝と謂(い)ふ可(べ)し。
という文章で出ています。
孔子の弟子の曾子。曾子の弟子の樂正子春(ガクセイシシュン)があるとき怪我をしてしまいました。
怪我が治ってからも悄気(ショゲ)ているので、樂正子春の弟子が
「怪我が治ったのに、浮かない顔をなさっているのはどうしてですか」と、聞きました。
吾、諸(これ)を曾子に聞き、曾子は諸を夫子(フウシ:孔子のこと)に聞けり。
私は、曾子から聞き、曾子は孔子から聞いたことだが
天の生ずる所、地の養う所、人より大為るはなし。
天の生じた物、地の養ったもの、その中で人間ほど大切な物は無いということだ。
父母全(まった)くして之(これ)を生む、子全くして之を帰す、孝と謂(い)ふ可(べ)し。
父母が完全な形で産んでくれた身を、子は、いつか完全な形で(地に)返してこそ、
孝ということが出来る。
其の體(体)を虧(か)かず、其の身を辱(はづかし)めざるは、全くすと謂(い)ふ可(べ)し。
五体を損なうことなく、身体を汚すことのないのが、完全な形で返すというものである。
故に君子は頃歩(キホ)も敢て孝を忘れざるなりと。
だから君子は半歩あるくにも決して孝を忘れないのである。
今予(われ)は孝の道を忘る、予是を以て憂色有るなり。
いま私は孝のおきてを忘れ、足にけがをした。だから久しく憂いが去らないのだ。
『論語』の泰伯篇に曾子が言ったこととして
曽子、疾(シツ)有り。門弟子を召して曰わく、予が足を啓(ひら)け、予が手を啓け。
曽子が重病になった時、弟子達を呼び集めて、私の足や手を調べてくれ。
詩に云う、戦々兢々として深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如しと。
詩経に、戦々兢兢として深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如くに身体を大切にせよ、とある。
而今よりして後、吾免(まぬか)るるを知るかな、小子(ショウシ)。
(私は父母からいただいたこの体を傷つけぬよう大切にして来たが)
これでようやく我が身の保全から解放されて、安心してあの世に行けるようだ、お前達よ。
以前、9月15日は老人の日と呼ばれていました。