自分の力でなく、他人の力によって望みをかなえようとすることを表す言葉です。
もともとは仏教からきた四字熟語ですが、仏教本来の意味で使われるよりは【他人任せ】という意味で
使われることが多いです。
浄土仏教で、【他力】は、【阿弥仏の力】を言うそうです。その力で我々を救ってくださる、らしいです。
【本願】は、【本当の願い】ということで、もう少し分かり易く言うと【お約束】だそうです。
結局仏教で言う【他力本願】は「阿弥陀様が我々を救ってくださるというお約束」をいいます。
ですから、いま普通に使うのとは、むしろ逆が仏教本来の意味だったようです。
『歎異抄』の悪人正機(アクニンショウキ)のところに【本願他力】という言葉で出ています。
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
善人ですら極楽浄土へ行くことができる、まして悪人は、極楽浄土へ行くのは当然です。
しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。
ところが世間の人は、悪人でさえ極楽浄土へ行けるのだから、善人はなおさらのことだと
いいます。
この条、一旦そのいはれあるににたれども、【本願他力】意趣にそむけり。
これは一見それらしく聞こえますが、 阿弥陀仏が本願をたてられた趣旨に反するのです。
そのゆへは、自力作善(ジリキサゼン)のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、
なぜならば自分の力で極楽往生しようとする人は、阿弥陀様にお願いする心が
かけているので
弥陀の本願にあらず。
(こういう人達は本来)阿弥陀仏のお約束の対象にはならないのです。
しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、
しかし、自力をすてて、阿弥陀様におすがりすれば、
真実報土の往生をとぐるなり。
真実の極楽浄土へゆくことができるのです。