ありもしない悪口を言って人を陥れたり、面前で媚び諂ったりすること。です。
【讒】は、そしる、悪口を言う、出鱈目を言う、の意味です。
【諂】は、へつらう。他人の気に入るように心にもないことをいう、と言う意味です。
【面諛】は、面と向かってこびへつらうことを言います。同じ意味合いに【面従腹背】があります。
【阿諛追従】は、『孟子』告子(コクシ)下にでてきます。
魯の国では、孟子の弟子の楽正子(ガクセイシ)を宰相に登用しようとしました。
孟子はこの話を聞いて、嬉しくて夜も寝られないほどの気持ちだ、と言いました。
それを聞いて、別の弟子の公孫丑(コウソンチュウ)が不思議そうにたずねました。
公孫丑 「楽正子は、剛毅果断な人物なのでしょうか」
孟子 「いいや」
公孫丑 「では、思慮分別があるからですか」
孟子 「いいや。」
公孫丑 「では、博識多聞だからでしょうか」
孟子 「いいや。」
公孫丑 「それならば、どうして先生は嬉しくて夜も寝られないのですか」
孟子 「楽正子という人物は、ほんとうに善いことが好きだからだ」
公孫丑 「善を好むだけで、国がよく治まるのですか」
孟子 「善いことが好きならば、天下を治めるのには十分なのだ。ましてや魯国を治めるには
余りあるものだ。そもそも、善を好めば、天下の人々は、こぞって千里の道をも平気で
やって来て、悦んで善いことをすすめてくれるだろう。
しかし善を好まない人物だったら、
『わかったわかった。そんなこと、私はとっくに知ってるよ』などと言ったりするものだ。
つまり、何でもかんでも知っているかのような口ぶりや顔色が、心ある人を千里の遠くへ
引き離してしまうのだ。
士千里の外に止まらば、則ち【阿諛追従】の人至らん。
かくて賢者が千里の遠くへ止まって近づかなくなると、いれかわりに讒言するものや
媚び諂うものや口先だけお上手を言う者が必ず集まってくるものだ。
【阿諛追従】の人と居らば、国治まらんことを欲するも得(う)べけんや。
こんな連中とばかりいっしょにいたならば、どんなに国がよく治まるように望んだとして
どうして国が治まるはずがあろう。だからこそ、楽正子に期待しているのだ」