言葉を用いずに、自然に体得できるような教え、を言っていると思います。
特に老子の「無為自然」の教えを言います。
【不言之教】は『老子』の第二章と第四十三章にでてくる言葉です。
第一章で、「道」についての説明がありまして、続いて第二章に「無為」と【不言之教】が説明されています。
この世の人はみな、なにが美であるかを知っているが、見方によればそれは醜でもある。
善も、立場を変えれば悪ともなってしまう。
有無、難易、長短、高下、音(楽器の音色)声(人の声)、前後、これらはみな相対的な
ものである。
そこで、「道」と一体となった聖人は「無為」にいて、「不言」の教えをなすのである。
と言うのが第二章の概略の内容です。
第四十三章も「無為」と【不言】がでてきます。ここでは「柔よく剛を制す」と言うこともでてきます。
「柔らかく弱々しいものが、堅く逞しいものを思い通りにすることができる」と話をして、
ことさらな、人為的なことをしない「無為」が有益であることを知るようになる。
だから、言葉に頼らない【不言之教】と、「無為」の益とは、世の中で匹敵するものは、
ほとんどない。
第二章の原文、読み下し文、口語訳の一部を書きます。
天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。
天下みな美の美たるを知るも、これ悪のみ。みな善の善たるを知るも、これ不善(フゼン)のみ。
世界の人々は、美しいものを美しいとするが、実はそれは醜いものなのだ。
(世の中のものごとはすべて相対的なものなのである)
(途中略します)
是以聖人、處無爲之事、行不言之教。
ここを以(も)って聖人は、無為の事に処(お)り、不言(ふげん)の教えを行なう。
「道」と一体となった聖人は、ことさらな、人為的なことをしない「無為」の立場に身を置き
「不言」の教えをなすのである。
現実に「道」を心得た聖人なんていないのですから、
自分で【不言之教】をどこかから学ばないといけません。それにはかなりの賢さが必要です。
憲法第15条2項 すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。
分かり易く具体的に言いますと
公僕であることを自覚し、一部の既得権益者や職場の奉仕者となってはいけません。