B.C.206年 秦王子嬰(シエイ)、劉邦に降り、秦帝国亡ぶ。
劉邦、法三章を約す。
項羽・劉邦、鴻門に会す。
項羽、咸陽に入り、子嬰を弑し、宮殿を焼く。
項羽、懐王を立てて義帝とし、劉邦以下18人を諸侯王に封じる。
項羽の論功行賞に不満の諸將、反旗を挙げる。
楚漢戦争の始まりです。漢の高祖元年でもあります。
この年、史記は「高祖本紀」の漢の元年十月の条に詳しい記載を残しています。
漢の元年十月、沛公の兵、遂に諸侯に先んじて覇上に至る。
遂に西のかた咸陽にはいり、宮中に留まろうとしましたが、樊噲(ハンカイ)と張良の諫めで、
秦の宝物を封印して軍を覇上に返し、諸県の長老・豪傑を集めて、考えを言いました。
長老の諸君、久しく秦の苛法に苦しんだが、自分が秦を攻めるにあたって、諸侯と約束した。
先に関中に入った者がその地の王になるべきであると。だから自分がこの関中の王となるのは
当然である。ついては諸君と約束する、法は三章のみ。
① 人を殺した者は死刑に処す。
② 人を傷つけた者、および盗みをした者は、それ相当の刑にする。
③ そのほかはいっさいの秦の法を除き去る。
秦の民はおおいに喜びました。
以前の秦の法律は苛酷に過ぎ、秦民はくるしんでいましたから、諸手を挙げての賛同を得たのでした。
この後B.C.202年「垓下の戦い」で項羽が敗れて自刎し、漢の天下統一がなされます。
実際に天下を治めるには三章では足りなかったため、のちに蕭何(ショウカ)が「九章律(きゅうしょうりつ)」を定めました。蕭何は韓信・張良とともに漢の三傑と言われています。
「九章律」そのものは、南北朝時代に散逸したため、一部の逸文を除いてその内容を知ることは出来ないそうです。