恩義を受けたことのある人が、恩人が危機に陥ったときに、何はさて置き助けに行くことを表す四字熟語です。
『史記』秦本紀・繆公(ボクコウ)十五年九月壬戌(ジンジュツ)に載っている出来事です。
以前、晉が旱魃(カンバツ)のとき、秦の繆公は穀物を快く提供しました。
繆公十五年(B.C.645)、秦が飢饉になったとき、晉は一粒の穀物も提供せず、あろうことか
弱みにつけ込んで秦に攻め入ってきました。
韓の地で、晉の恵公と秦の繆公が対戦しました。
晉の恵公は全軍を投入して短期決戦に持ち込みました。
しかし、恵公の騎乗する馬が、
ぬかるみに足を取られ、動けなくなってしまいました。
これを見た繆公は、自ら手勢を従えて襲いかかりましたが、恵公の馬は
何とかぬかるみを脱して逃げてしまいました。
反対に突っ込んで行った繆公のほうが晉軍に囲まれ、形勢は逆転、繆公は負傷し、
馬は進めず、あわやの時を迎えます。
この時、何処からともなく三百人の集団が駆けつけ、繆公を包囲する晉軍に
斬り込んで大暴れしました。
不意をつかれた晋軍は包囲を解き、繆公は危機を脱し、かえって晋君を生け捕りに
することができました。
三百人の集団、何者か。
かって繆公は、愛馬を見失ったことがありました。見つけた時は、山の麓に
暮らす者たちが、繆公の愛馬を捕まえて、皆で食べてしまったところでした。
その数三百人。役人が捕らえて罰しようとすると、繆公は
「君子は家畜のために、人を害してはならない。わしは、良馬の肉を食ったら酒を飲まないと
人を傷(ソコナ)う、と聞いている」と言って、皆に酒を賜い罪を赦してやりました。
三百人の者たちは、秦が晋を撃つと聞いて、みな従軍を願い、繆公が危険になったのを見ると、
命を顧みず、死を争って、馬を食って赦された徳に報いたのでした。