【怨(うら)み骨髓(コツズイ)に入(い)る】と読みまして、心の底から激しく怨むという意味です。
出典は『史記』秦本紀です。
春秋時代(B.C.770~B.C.403)、秦の穆公(ボクコウ:B.C.659B.~C.621)は蹇叔(ケンシュク)・百里傒(ヒャクリケイ)の反対を押しきって鄭(テイ)への出兵を決め、三将軍を派遣しました。
しかし鄭に感ずかれていたのが解ったので、方針を変え晋(シン)の辺境の邑(まち)滑(カツ)を滅ぼしました。
このとき、晉では文公が亡くなり喪中であった、まだ葬儀がすんでいません。子の襄公(ジョウコウ:B.C.627~B.C.621)は激怒し、墨染にした喪服を着て出兵し秦軍を殽(コウ)に破り三将軍を虜(とりこ)にしました。
襄公の母は秦の穆公の娘だったので三将軍を助けたいと思い、
繆公之怨此三人、入於骨髓。
繆公の此(こ)の三人を怨(うら)むや、骨髄(コツズイ)に入(い)れり。
父の穆公がこの三将軍を怨むことは大変なもので、
その怨みは骨の髄に染み込むほどでしょう。
願令此三人歸、
願(ねが)わくは此(こ)の三人をして帰(かえ)らしめ、
どうか、この三将軍を秦に送り帰して、
令我君得自快烹之。
我が君をして自ら快く之を烹(に)るを得しめよ。
父にぞんぶんに煮殺させてください」
と願い出ました。襄公はこれを聞き入れて、秦の三将軍を帰しました。
送り返された三将軍に対し、穆公は自分の無謀をわび、泣いて言いました
「わしが、蹇叔・百里傒の意見を用いなかったばかりに、そなたら三将軍を辱めてしまった。三将軍に何の罪があろう」
そして、三将軍の官位・秩禄(チツロク:給料)をもとどおりにし、ますます厚遇しました。






























