小さな国で育ったので、外の世界を知らず自分だけが優れていると思い込んで、得意になっていることの譬(たとえ)です。
【遼東】は遼河(リョウガ)の東側の地方を言います。遼河の河口から南西につき出たのが【遼東半島】です。【遼東半島】の直ぐ東が北朝鮮です。
昔、中国遼東地方の人のところで、飼っている豚が白い子豚を産みました。
遼東地方の豚はみんな黒豚だったので、大変珍しいことだと思い、献上して褒美をもらおうと白豚を持って出かけました。
途中黄河の東側、河東(北京などがある地方です)というところへ来て見ると、その土地の豚はみんな白豚でした。河東では白豚なんか珍しくもなんともなかったんだと知り、大いにに恥ずかしがって帰っていきました。
これが【遼東之豕】のお話ですが、『後漢書』朱浮(シュフ)伝に【遼東之豕】を譬え話に使った史実が記載されています。
魚陽(ギョヨウ)の太守彭寵(ホウチョウ)は野心家でした。光武帝が中国平定の戦いをしている時、
彭寵は光武帝から大将軍に任命されました。それを鼻にかけて次第に傲慢な態度が目立ち始め
ました。
漁陽郡の監察役に当たる幽州牧朱浮と、貧しい者に食料を与えるかどうかを端緒としまして、
幽州の統治方針を巡って朱浮と彭寵は、ことごとく対立することになりました。
しかも朱浮は、光武帝に対してしばしば彭寵を讒言(ザンゲン)しているという噂を耳にして、
彭寵は、朱浮への憎悪を募らせました。
彭寵はついに兵をあげて朱浮を攻めることにしました。これに対して朱浮は書簡をもって
彭寵を諫めました。
往時、遼東に豕有り、子を生んで白頭なり。異として之を献ぜんとし、
行きて河東に至りて、群豕(グンシ)皆白きを見、慙(はじ)を懐きて還える。
若(も)し、子(彭寵のことです)の功を以て朝廷に論ぜば、則(すなは)ち
【遼東之豕】と為す。
その後、紆余曲折 いろいろありましたが、歴史上
建武5年(29年)春、彭寵とその妻は、奴僕(ヌボク:男性の召使い)の子密(シミツ)に自宅で暗殺され、
2人の首級は光武帝に差し出された。と結ばれています。
ほぼ2000年前の出来事です。
『歴史は繰り返す』とも言われています。