人に言いたいように言わせておいて、自分ではさからわないことを譬えた四字熟語です。
【牛と呼び馬と呼ぶ】と訓読みされます。
『荘子』:天道篇にでてきます。
士盛綺(シセイキ)という人が、老子は聖人であるという噂を聞きつけ、遠路はるばるやってきました。
かなり期待して訪問したのですが、その乱雑な生活ぶりに失望し、悪態をつけて帰ってしまいました。
その間、老子は無反応でした。
士盛綺はその翌日再び老子を訪ねました。
その時の会話の中に【呼牛呼馬】が出てきます。
士成綺は翌日再びやってきた
「昨日は、あなたに悪口をつきましたが、今日になってみると心にむなしさを感じます。
これは何故でしょうか」
老子は答える「私は私自身、知恵の優れた者の境地から脱却したと思っています。
昔者、子呼我牛也、而謂之牛、
昔者(きのふ)、子(シ)我を牛と呼ぶや、而(すなは)ち之(これ)を牛と謂ひ、
昨日、あなたが私を牛と呼べば、私は自分を牛だと思い、
呼我馬也、而謂之馬。
我を馬と呼ぶや、而(すなは)ち之(これ)を馬と謂へり。
馬と呼べば馬だと思っていました。
苟其有實、人與之名而弗受、
苟(いやし)くも其の実(ジツ)有り、人之に名を與(あた)へて受けざれば、
(人格的)内容を備えていながら、人の与えた名称を受け入れなければ、
受其殃。
再び其の殃(わざはひ)を受けん。
重ねて災いを受けるでしょう。
私の行為は、ご覧のとおりで、別に何かやりたいからやると言ったものではありません」。
老子は生地のままを人に示し、飾ろうという気持ちは全くなく、人が何を言おうがお構いなし。
評価という目で人を見ることはしない。すべて自然のままである。
一方、士成綺の目には尺度があり、その尺度で人を見るため、かえって自己矛盾に陥ったり、心の虚しさを感じざるを得なくなったようです。