友のために頸(くび)を刎(は)ねられても悔いないと云うくらいの親交の深さを表す四字熟語です。
【刎頸の交わり】として使われることが多いです。
【刎頸の交わり】と言いますのは、司馬遷の「史記」廉頗(レンパ)・藺相如(リンショウジョ)列伝の中に出てくる言葉です。
【完璧】で名を馳せた藺相如と、廉頗将軍とのつきあいを言った四字熟語です。
藺相如は秦の昭王と趙の恵文王の澠池(ベンチ)での会見で、秦王の辱めから趙王を守った忠臣であり、
廉頗将軍はそれまでに数々の武勲を立てた英雄であります。
澠池の会見での功により藺相如を上大夫から上卿に親任しました。
そうなると面白くないのは地位が下になった廉頗将軍であります。
自分は攻城野戦に趙の大将として大功をたてたと云うのに、藺相如は口先ばかりの働きで自分の上位に立った。それに元々卑しい出自のヤツである。顔をあわせたら恥辱を与えてくれようと誰にとなく言いふらすのでありました。
藺相如はその噂を聞いて廉頗には近づかないようにしました。朝見の時も病気と称して廉頗との同席を憚るのでありましたし、外出時に遠くから廉頗の姿を認めると姿を隠すのでありました。
そうなると藺相如の家来たちは主人のそんな態度に我慢がなりません。
「お暇をいただきたい」と申し入れました。
藺相如はそんな家来に、
強大なる秦が趙に攻めて来ないのは、趙に自分と廉頗の二人が共に揃って居るがためである。もし二人が争ってどちらかが欠けるようなことになれば、秦につけこむ隙を与えることになるだけだ。
廉頗之(これ)を聞き、肉袒(ニクタン)して荊(ケイ)を負ひ、
廉頗はこの言葉を聞いて、もろ肌を脱いで荊(いばらのむち)を背負い、
藺相如の門に至りて、謝罪して曰はく
藺相如の館の門前におもむいて、謝罪して言った
鄙賤(ヒセン)の人、将軍寛なることの此に至れるを知らざるなり。と。
わたしは田舎者で賤しい人間でした。将軍が寛容で思慮深いことを此処に至るまで
知りませんでした。
卒(つい)に相与に驩(よろこ)び、刎頚の交はりを為す。
結局、二人はお互いに親しみ合って、首をはねられても悔いない交わりを誓ったのでありました。