【彼も丈夫(ジョウフ)なり、我も丈夫なり。】と読みまして、彼(勇士)も我も男子であることに変わりはない。男子たる者、志をたてて奮励努力すれば勇士の域に到達することができるたとえです。
出典は『孟子』滕文公上篇です。
滕文公爲世子、
滕(トウ)の文公、世子(セイシ)爲(た)りしとき、
滕の文公がまだ世子であられたころ、
將之楚、過宋見孟子、
將(まさ)に楚に之(ゆ)かんと、宋(ソウ)に過(よぎ)りて孟子を見る。
楚に赴こうとしていた途中で、宋の國に孟子が居ることを知り、
わざわざ回り道をして孟子に面会した。
孟子道性善、言必稱堯舜、
孟子性善(セイゼン)を道(い)い、言えば必ず堯舜(ギョウシュン)を稱(ショウ)す。
孟子はいつもの性善説を説き、口を開けば必ず古の聖人:尭舜を引き合いに出した。
世子自楚反、復見孟子、
世子、楚自(よ)り反(かえ)りて、復(また)孟子を見る。
世子は、楚のかえりにまた孟子を訪ねて質問しました。
孟子曰、世子疑吾言乎、夫道一而已矣、
孟子曰く、世子よ、吾が言(ことば)を疑うか。
孟子が言いました、貴方はまだ私の言葉を疑っておられますか。
夫道一而已矣
夫(そ)れ道は一のみ。
そもそも、道はただの一つだけですぞ。
成覵謂齊景公曰、
成覵(セイケン)、齊の景公に謂いて曰く、
昔、斉の成覵という勇士は、景公に向かって
彼丈夫也、我丈夫也、我何畏彼哉、
彼も丈夫なり、我も丈夫なり、我何ぞ彼を畏(おそ)れんや。
彼も一人の男子なら、自分だって一人の男子です。なんで畏れることがありましょうや。
顏淵曰、舜何人也、予何人也、有爲者亦若是、
顏淵(ガンエン)曰く、舜(シュン)何人(なんびと)ぞや、予(われ)何人ぞや。
また孔子の高弟の顏淵は、舜はいかなる人物なのか、自分はまたいか なる人物なのか。
有爲者亦若是、
爲(な)すこと有(あ)るは、亦(また)是(かく)の若(ごと)くなるうべし。
成し遂げようと志せば、きっと舜のようになれるのだ。