【百聞(ヒャクブン)は一見(イッケン)に如(し)かず】と読みまして、人の話を何回も聞くよりも、実際に自分の目で確かめる方が確実であるという意味です。
出典は『漢書』趙充國(チョウジュウコク)傳です。
時充國年七十餘
時に充國年七十餘り
当時、趙充國は七十余歳だったので
上老之、使御史大夫丙吉問誰可将者。
上之を老とし、御史大夫丙吉をして誰か将たる可きべき者ぞと問は使む。
宣帝はこれを老齢とし、御史大夫の丙吉に、
誰を羌族討伐の将軍にしたらよいかを問わせたところ
充國對曰、亡踰於老臣者矣。
充國對へて曰く、老臣に踰(まさ)る者亡(な)しと。
充國は、老臣である私にまさる者はおりません、と答えた。
上遣問焉曰
上遣(つか)わして問わしめて曰く、
宣帝が使者をつかわして、尋ねた。
将軍度、羌虜何如、當用幾人
将軍、羌虜(きょうりょ)を度(はか)ること何如(いかん)、當(まさ)に幾人を用うべきか?」
将軍(趙充国)は、羌の勢力がどれほどであると思うか。
また反乱を鎮圧するには、どれほどの兵力が必要であろうか」と。
充国曰、百聞不如一見。兵難踰度。
充国曰く、百聞は一見に如かず。兵は踰(はるか)に度(はか)り難(がた)し。
趙充国は答えた。百聞は一見に如かず。
軍事は現地を遠く離れては、はかりがたいものです。
臣願馳至金城、図上方略。
臣願はくば馳せて金城に至り、図(えが)きて方略を上(たてまつ)らん。」
願はくは、私が自ら金城にかけつけ、現地の地形を図に描き、それから方策をたてまつりたく
存じます、と。
趙充国(チョウジュウコク:B.C.137年 ~ B.C.52年)は、武帝(B.C.141~B.C.87)昭帝(B.C.87~B.C.74)、宣帝(B.C.74~B.C.49)三代に仕えた軍人です。
武帝の時には将軍・李広利(リコウリ)に従って匈奴と戦い、二十余りの傷を負いながらも窮地に陥った軍を救う功績をあげました。
昭帝の時代にも戦功をあげ、将軍に抜擢(バッテキ)されました。
宣帝の時代、羌(キョウ)というチベット系の遊牧民に派遣した使者が高圧的なやり方をして失敗したことから、羌との間に紛争が生じました。