名声を歴史に残し後世に伝えることを表す四字熟語です。
【名(な)を竹帛(チクハク)に垂(た)る】と訓読みされます。
【竹帛】は昔 紙のなかった時代に、竹の札や帛(絹)に文字を書いたことから書物・史書をいいます。
『後漢書』鄧禹(トウウ)伝にでてきます。
鄧禹(トウウ)、字は仲華(チュウカ)、南陽の新野の人なり。
鄧禹は字を仲華といい、南陽の新野の人である。
年十三にして、能く詩を誦し、業を長安に受く。
十三歳にして詩に通じ、長安で学んだ。
時に光武(劉秀:リュウシュウ)亦(ま)た京師(都:長安)に游学す、
劉秀もまた長安で学び、
禹、幼年と雖(いえど)も、光武を見て常人に非(あら)ざるを知り、遂に相ひ親しみ付く。
鄧禹は年少の頃から劉秀を常人に非ざる者とみていた。
数年にして家に帰る。
互いに親交を深めあった二人だが、数年して鄧禹は故郷へと帰った。
その後、漢再興の兵が起こり、劉秀も河北に進軍した。これを知った鄧禹は、単身で河北へと向かい、
鄴(ギョウ)において劉秀と再会した。
光武、之を見て甚だ歓び、謂ひて曰く、
鄧禹の来訪に劉秀は大そう歓んで云った。
我れ封拝(フウハイ)を専(もっぱ)らにするを得ん、生、遠来す、寧(むし)ろ仕ふるを欲するか、と。
私は官吏の任命権を得るにまで至りました。先生は遠くからいらっしゃいましたが、
官職を欲してのことですか、と。
禹、曰く、願はざるなり、と。
鄧禹が云った。官職など望むものではありません、と。
但(た)だ願はくば明公の威徳を四海に加へ、禹、其の尺寸を効(いた)すを得、
私が望むことはただ一つ、貴方の威徳を天下に広め、その助けをわずかばかりでも担って
功名を竹帛に垂るのみ、と。
後世へと語り継がれるような偉業を達したいのです、と。
これを聞いた劉秀は破顔一笑し、鄧禹を自分の宿舎へと招いて共に語り合った。
今日は「歌舞伎の日」だそうです。
慶長12(1607)年のこの日、出雲の阿国が江戸城で将軍徳川家康や諸国の大名の前で初めて歌舞伎踊りを
披露したそうです。それに先立ち、慶長8(1603)年、京都四条河原で出雲の阿国が歌舞伎踊りを始めたのが歌舞伎の発祥とされています。
【垂名竹帛】の名優が相次いで亡くなりました。惜しまれます。