【羞惡(シュウオ)の心は、義(ギ)の端(はじめ)なり】と読みまして、惡を羞(は)じ憎む心は義の芽生えである、という意味です。
出典は『孟子』公孫丑上です。
無惻隱之心、非人也、
惻隱の心無きは、人に非ざるなり、
あわれみの心がないものは、人間ではない、
無羞惡之心、非人也、
羞惡の心無きは、人に非ざるなり、
悪をはじにくむ心のないものは、人間ではない、
無辭讓之心、非人也、
辭讓の心無きは、人に非ざるなり、
譲りあう心のないものは、人間ではない、
無是非之心、非人也。
是非の心無きは、人に非ざるなり。
善し悪しを見分ける心のないものは、人間ではない。
惻隱之心、仁之端也、
惻隱の心は、仁の端(はじめ)なり、
あわれみの心は、仁の芽生えであり、
羞惡之心、義之端也、
羞惡の心は、義の端なり、
悪をはじにくむ心は、義の芽生えであり、
辭讓之心、禮之端也、
辭讓の心は、禮の端なり、
譲りあう心は、禮の芽生えであり、
是非之心、智之端也。
是非の心は、智の端なり。
善し悪しを見分ける心は、智の芽生えである。