遠い国と仲良くし、背後から牽制させながら近い国を攻める策をいいます。
中国戦国時代の范雎(ハンショ)が秦の昭王(B.C.306~B.C.251)に進言した戦略です。
『史記』范雎・蔡沢(サイタク)列伝にでてきます。
范雎は魏の人。他国に内通しているとの讒言(ザンゲン)から命が危うくなりました。
知りあいの鄭安平(テイアンペイ)に匿(かく)まわれ、范雎は名を張禄(チョウロク)と変えて、
秦の都:咸陽(カンヨウ)に入ることが出来ました。
しかし、しばらくは得意の弁舌を振う機会は来ませんでした。
昭王の三十六年、秦は斉を侵攻して、領土拡大を企てました。
これを知った范雎は、昭王に文書を差出し拝謁(ハイエツ)を願いでました。
「韓・魏の両国を通り越してあの強い斉を攻められるのは策を得ておりません。
少しぐらいの兵を動かしたところで斉はびくともしませんし、そうかといって
大兵を出せば秦のためによろしくありません。
いま王が採るべき方法としては、
【遠い国と交わりを結んで、近い国を攻める、すなわち遠交近攻の策が一番よろしいかと存じます】。
一寸の土地を得れば王の寸土ですし、一尺の土地を得れば王の一尺の地ではありませんか。
利害損失がこれほど明らかなのに、遠くを攻めるのは間違ってはおります」。
昭王は范雎の外交戦略をよしとし宰相に任じ着々と実績を揚げていきました。
約50年後 曾孫(ひまご)にあたる秦王政(始皇帝)によって中国は統一されました。
洗車してキレイになった「我が愛車」を見て、垣根越しに隣のご主人が言いました
『イイ車 お持ちですね』
『イヤあ~。 どうも』
『実は、その車 私のなんですヨ』
『何を言ってるんですか、アホクサッ!』
『まあ この問題、しばらく棚上げにしておきましょう』
こんなバカな会話ありませんよね。