【蓮(はす)は汚泥(オデイ)より出(い)でて染(そ)まらず】と読みまして、蓮は泥の中から出てくるが、それに汚されない。世俗の汚濁に染まらない清らかな心や人のたとえを北宋の周敦頤が『愛蓮の説』で述べた言葉です。
予獨愛蓮之出淤泥而不染、
予は独り蓮の汚泥より出でて染まらず、
私は一人、蓮が、泥から咲き出し、泥には染まらず、
濯清漣而不妖、
清漣(セイレン)に濯(あら)はれて妖(ヨウ)ならず、
清らかなさざ波に洗われてもなまめかしさはなく、
中通外直、
中(なか)は通じ外(そと)は直(なお)く、
中は通っていて外はまっすぐ、
不蔓不枝、
蔓(つる)あらず枝(えだ)あらず、
蔓もなく枝もなく、
香遠益清、
香遠くして益(ますます)清く、
その香は遠くへ、清らかに、
亭亭浮植、
亭亭(テイテイ)として浄(きよ)く植(た)ち、
まっすぐに清らかに立ち、
可遠観而不可褻翫焉。
遠観(タッカン)すべくして褻翫(セツガン)すべからざるを愛す。
遠くから眺めることはできても手に取ってもてあそぶことはできない、
それを愛するのです。