【論語を講(コウ)ずるは、是れ慈父(ジフ)の子を教うる意思(イシ)】と読みまして、「論語」を講義するには、慈愛ある父親が、子供に諄々と教える気持ちで行いなさい、と佐藤一斉先生が仰っています。
出典は『言志晩録』44条です。
講論語、是慈父教子意思。
論語を講ずるは、是れ慈父の子を教うる意思。
『論語』を講義するには、慈愛ある父親が、子供に諄々と教える気持ち。
講孟子、是伯兄誨季意思。
孟子を講ずるは、是れ伯兄(ハクケイ)の季(キ)を誨(おし)うる意思。
『孟子』を講ずるには、兄が末弟に親しみを込めて誨える気持ち。
講大学、如網在綱。
大学を講ずるは、網(あみ)の綱(つな)に在(あ)るが如(ごと)く。
『大学』を講ずるには、条理整然と、網を一本の綱で引き締めるような気持ち。
講中庸、如雲出岫。
中庸を講ずるは、雲の岫(シユウ)を出(い)ずるが如し。
『中庸』を講ずるには、虚心坦懐(キョシンタンカイ)に、
雲が山の洞穴から出るような心構えが宜しい。
四書を講義するときの心構えを述べたものです。