名誉や利益を求めて争うことを言う四字熟語です。
『史記』張儀伝に【争命争利】がみえます。
中国・戦国時代後期、「苴:ショ」という国と「蜀:ショク」という国が攻め合い、それぞれが「秦」に危急を告げました。
秦の惠文王(ケイブンオウ:B.C.338~B.C.311)は、この二国の攻め合いを利用して、『蜀』を伐とうと考えました。
しかし『蜀』を伐つ間に隣国の『韓:カン』が攻めてくるかもしれない。悩んだ挙句、
司馬遷の八世前の祖先にあたる司馬錯(シバサク)と、連衡(レンコウ)策を唱えていた張儀(チョウギ:?~B.C.309)とに論争をさせました。
張儀は『蜀』を伐つ前に『韓』を伐つべきと主張しました。その主張の中に【争命争利】がでてきます。
今、夫(そ)れ蜀は、西僻(セイヘキ)の國にして戎翟(ジュウテキ)の倫(ともがら)なり。
蜀などというのは、西方避遠の國、野蛮人の仲間でございます。
兵を弊(つか)らし衆を勞(ロウ)すとも、以て名を成すに足らず。
兵を疲れさせ、民を疲れさせたとしても、名誉にはなりません。
其の地を得(う)とも、以て利と為すに足らず。
その地を奪ったところで、何の利益にもなりません。
臣聞く、【名を争ふ者は朝に於(おい)てし、利を争ふ者は市に於てす、と。
私は聞いております。【名を争うなら朝廷で、利を争うなら市場で】と。
司馬錯(シバサク)は、張儀とは反対に『蜀』を伐つべきと主張しました。
結局、惠文王は『蜀』を伐つことにしました。
卒(つい)に兵を起こして蜀を伐つ。
兵を出して蜀をうち
秦以て益々彊(つよ)く、富厚(フコウ)にして諸侯を軽んず。
秦はいっそう富強となって、諸侯を軽んじた。
秦が中国を統一した(B.C.221年)、ほぼ100年前の出来事でした。