【君 辱(はずか)しめらるれば、臣(シン)死す】と読みまして、殿樣が屈辱を受ければ、家来は命を投げ出してその恨みを晴らす、と言う意味です。忠臣蔵を髣髴(ホウフツ)とさせる言葉です。
出典は『国語』越語・下です。
『国語』といいますのは、春秋時代の諸国(周・魯・斉・晋・楚・呉・越・鄭)の王侯や文武官の言動を21篇に纏めて記録したものと言われています。
著者は『春秋左氏伝』の著者とされる魯の左丘明(サキュウメイ)と言われていますが、定かではないようです。
呉越の戦いで最終勝利者は「越」でした。以下の話は越が呉を破って帰国する途中の話です。
反(かえ)りて五湖(ゴコ)に至り、范蠡(ハンレイ)王に辭(ジ)して曰く
呉を滅ぼしての帰りに五湖まで来ると、范蠡が越王に暇乞いして言いました
君王之(これ)を勉(つと)めよ、臣復た越國に入らじ、と。
王様しっかりなさいませ。私は二度と越の国へは入りません。
王曰く、不穀(フコク)子の謂うところの者を疑ふ、何ぞや、と。
越王が言いました、わたしには、あなたが何を言おうとするのか分かりません
對(こた)へて曰く、臣之を聞く、人の臣たる者は、
范蠡が答えるには、わたくしの聞きますには、人臣は、
君憂ふれば臣勞し、
君に憂いがあれば臣下は骨を折って尽力し、
君辱しめらるれば臣死すと。
君が辱しめられれば臣下は命を投げ出すと申します。
昔君王の會稽に辱しめられしとき、
昔王様が会稽山で呉に辱しめられましたのに、
臣の死せざる所以(ゆえん)の者は、
わたくしが死ななかったわけは、
此の事の爲なり、
この呉征伐のためでした
今事已(すで)に濟(な)れり、
今この事は成就しました、
蠡請ふ會稽の罰に從はん、と。
わたくしのお願いです、どうか会稽の罰を受けさせて下さい。
元禄15年(1702年)12月14日は赤穂浪士による吉良邸打ち入りの日です。