【後悔(コウカイ)臍(ほぞ)を噬(か)む】と読みまして、事が起こってから悔いても及ばない、という意味です。
出典は『春秋左氏傳』荘公六年です。
春秋時代、楚の18代文王(B.C.689年~B.C.677年)が申(シン)を討伐する途中、鄧(トウ)の国に
立ち寄って一晩泊めてもらうことになりました。
鄧の祁侯(キコウ)の三人の甥、騅甥(スイセイ)、耼甥(タンセイ)、養甥(ヨウセイ)が進言しました。
亡鄧國者、必此人也。
鄧(トウ)國を亡ぼす者は、必ず此の人ならん。
鄧國を亡ぼす者は、きっとこの人でしょう。
若不早図
若(も)し早く図(はか)らずんば
もし早いうちに処理しておかないと、
後君噬臍。
後に君臍(ほぞ)を噬(か)まん。。
後で臍をかんでもどうにもならないであろう
其及図之乎。
其れ之を図るに及ばん。
今のうちに処理しましょう。
図之、此爲時矣。
之を図らんとせば、此を時と爲すや、と。
これを処理するには今がよい時です。
鄧の祁侯はグタグタつまらない言い訳をして、三人の甥たちの諫(いさ)めを聞き入れませんでした。
申の征伐を終えた楚の文王は、帰り道に鄧を攻撃し相当な被害を与えました。
そしてB.C.678年、楚は再び鄭を伐って滅ぼしてしまいました。