ほかのことに夢中になって、肝心な仕事をおろそかにしてしまうことの例えを言った四字熟語です。
二人の羊飼いの失敗を例にとり、束縛のない自然の生活こそ、真の道徳に適ったものである、という老荘思想の一面を述べた寓話です。
面白いので、長文ではありますが全文掲載しました。口語訳だけでも結構ですので読んでみて下さい。
臧(ゾウ:婢と結婚した男)と穀(コク:奴隷と結婚した女)と二人相(あい)與(とも)に羊を
牧(ボク)して、俱(とも)に其の羊を亡(うしな)へり。
下男と下女は二人して羊の世話をしていましたが、羊に逃げられてしまった。
臧に奚(なに)をか事とせしと問へば、則ち筴(さく)を挾(さしはさ)みて書を讀(よ)めり。
下男に何をしていたのかと問うと、竹簡を脇の下に挟んで、読書をしていたと答えました。
穀に奚をか事とせしと問へば、則ち博塞(ハクサイ)して以て遊べり。
下女に何をしていたのかと問うと、賭け事をして遊んでいたという。
二人は、事業同じからざるも、其の羊を亡(うしな)ふに於けるや、均(ひと)し。
二人のやっていたことは違ったが、羊を逃がした点では同じである。
伯夷(ハクイ)は名に首陽(シュヨウ)の下(ふもと)に死し、
伯夷は(新王朝に仕えることを潔しとせずに)名誉のために首陽山で餓死し、
盜跖(トウセキ)は利に東陵(トウリョウ)の上(ほとり)に死す。
盗跖は利欲のために東陵のほとりで死んだ。
二人は、死せし所同じからざるも、其の生を殘(そこな)ひ性を傷(やぶ)るに於けるや、均し。
二人の死んだ理由は異なるが,生命や本性を損(そこ)なった点では同じである。
奚(なん)ぞ必ずしも伯夷は之れ是にして、盜跖は之れ非ならんや。
それならなぜわれわれは伯夷を賞賛し、盜跖を誹謗するのか。
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天下盡(ことごと)く殉(したが)ふなり。
すべての人はそれぞれ何かを目的にしている。
彼の其の殉ふ所仁義なれば、則(すなは)ち俗は之を君子と謂ひ、、
目的が仁義であれば、世間から慈善家といわれ、
其の殉ふ所貨財なれば、則ち俗は之を小人と謂ふ。
目的が財貨であれば、世間からは卑怯者といわれる。
其の殉ふこと一(いつ)なるも、則ち君子有り、小人有り。
目的が有るという点では同じでも、一方は紳士と呼ばれ,他方は卑怯者いわれる。
若(も)し其れ生を殘(そこな)ひ性を損(そん)ずるは、則ち盜跖も亦伯夷のみ。
しかし、生命や本性を損ねたという点では盗跖も伯夷と同じである。
又惡(いづく)んぞ君子小人を其の閒に取らんや。
それならどういう訳で「紳士」と「卑怯者」の区別をつけるのか。
束縛のない自然の生活こそ、真の道徳に適ったものである、という【無為自然】の生き方は古代中国では可能であったでしょうが、現代日本では無理と思います。