【士(シ)は己(おのれ)を知るものの為(ため)に死す】と読みまして、
男子たる者は、自分の真価をよくわかってくれる人のためには命をなげうっても尽くす、という意味です。
【士(シ)は己(おのれ)を知るものの為(ため)に死す】は、『知己:チキ』と言う言葉の語源でもあります。。
出典は『史記』刺客列伝です。
刺客列伝には、曹沫(ソウカイ)、專諸(センショ)、豫讓(ヨジョウ)、聶政(ジョウセイ)、
荊軻(ケイカ)の5人の話しが載っています。どの人物も自分を認めてくれた人の為に、命を擲ちました。
【士は己を知るものの為に死す】は、豫讓(ヨジョウ)に纏わる話です。
豫讓は、戦国時代の晋の人です。
初めは、范(ハン)氏に仕官しましたが、厚遇されず間もなく官を辞しました。
次いで中行(チュウコウ)氏に仕官しましたが、ここでも厚遇されませんでした。
今度は智伯(チハク)に仕えました。智伯は豫讓の才能を認めて、国士として優遇しました。
数年後、智伯は宿敵の趙襄子(チョウジョウシ)を滅ぼすべく、韓氏・魏氏を従え趙襄子の居城である晋陽(シンヨウ)を攻撃しましたが、韓氏と魏氏の裏切りにあって智伯は敗れて敗死し、智氏はここで滅ぼされました(B.C.453年)。
趙襄子最怨智伯、漆其頭以爲飮器。
趙襄子、最も智伯を怨み、其の頭(こうべ)に漆(うるし)して以て飲器と為す。
趙襄子は、最も智伯の仕打ちを怨み、そのしゃれこうべに漆(うるし)を塗って杯にした。
一方、辛うじて山奥に逃亡していた豫讓は【士は己を知るものの為に死す】と述べ復讐を誓いました。
豫讓遁逃山中曰、
豫讓、山中に遁逃(トントウ)して曰く、
山中にのがれた豫讓はいいました、
嗟乎、士爲知己者死、
嗟乎(ああ)、士は己を知る者の為に死し、
男子たる者は、自分の真価をよくわかってくれる人のためには
命をなげうってでも尽くす、
女爲説己者容。
女は己を説(よろこ)ぶ者の為に容(かたち)づくる。
女は、自分を愛する者のためにみめかたちを飾るものだ。
今智伯知我。
今、智伯、我を知る。
いま、知伯さまに理解された私だ。
我必爲報讎而死、
我、必ず為に讎(あだ)を報(むく)いて死し、
そのわたしはぜひとも仇を討って死ぬ、
以報智伯、
以て智伯に報(ホウ)ぜん。
それを知伯さまに報告すれば、
則吾魂魄不愧矣。
則(すなわ)ち吾が魂魄(コンパク)、愧(は)じざらん、と。
死んでもわが魂は恥ずかしい思いをして迷うこともあるまい。
豫讓は、趙襄子の館に厠(かわや)番として潜入し暗殺の機会をうかがいましたが、挙動不審なのを怪しまれ捕らえられました。
趙襄子は「智伯が滅んだというのに一人仇を討とうとするのは立派である」と、豫讓の忠誠心を誉め称えて釈放しました。
釈放された豫讓は復讐をあきらめず、顔や体に漆を塗って癩病(ライビョウ)患者を装い、炭を飲んで喉を潰(つぶ)し声色を変え、さらに改名して身分を分からなくしまし、再び趙襄子を狙いました。
豫讓は、ある橋のたもとに待ち伏せて趙襄子の暗殺を狙ったものの、通りかかった趙襄子の馬が殺気に怯(おび)えた為に見破られ捕らえられてしまいました。
趙襄子は聞きました。
「何故、智伯の為だけにそこまでして仇を討とうとするのだ」、
豫讓は、「范氏と中行氏の扱いはあくまで人並であったので、私も人並の働きで報いた。
智伯は私を国士として遇してくれたので、国士としてこれに報いるのみである。」と答えた。
豫讓は、趙襄子の衣服を貰い、三たびおどりあがって突き刺し、
「これでやっと智伯に顔向けが出来る。」
と満足気に言い終わると、剣に伏せて自らの体を貫いて自決しました。
趙襄子も豫讓の死に涙を流して「豫讓こそ、またとない真の壮士である。」とその死を惜しみました。この逸話は趙全体に広まり、豫讓は趙の人々に永く愛されることになりました。