【騏驥(キキ)隙(ゲキ)を過(す)ぐ】と読みまして、一瞬の出来事のことをいいます。
また、時の経過が非常に速いことのたとえにも使われます。
戸の隙間の向こう側を【騏驥】が走り抜ける様子を見ることができるほんの僅かな時間のことから、
人の命の儚さを嘆いた言葉としても使われていました。
『荘子』盗跖(トウセキ)篇に、
孔子が大泥棒の盗跖にお説教をしにいきますが、逆にコテンパンに言い負かされて、這う這うの態で逃げ帰り、「虎のひげを撫でに行き、虎にあやうく喰われかけた」とため息をつくお話があります。
今吾告子以人之情。
今、吾れ子に告ぐるに人の情を以てせん。
いま俺(盗跖)は、お前(孔子)のために人の情というものについて話してやろう。
目欲視色、耳欲聴聲、
目は色を視んと欲し、耳は聲を聴かんと欲し、
目は美しい色を見たいと望み、耳は良い音色を聞きたいと思い、
口欲察味、志氣欲盈。
口は味を察せんと欲し、志氣は盈(み)たんと欲し。
口はうまいものを味わいたいと願い、心の欲望は満たされたいと望むものだ。
人上壽百歳、中壽八十、下壽六十。
人、上壽は百歳、中壽は八十、下壽は六十。
人の寿命は最高の長生きでも百歳、中の長生きは八十、下の長生きは六十で。
除病瘦死喪憂患、
病瘦(ビョウユ)・死喪・憂患を除けば、
病気とか親戚の死亡とか心配事の期間を除くと、
其中開口而笑者、一月之中不過四五日而已矣。
其の中(うち)口を開いて笑う者、一月の中、四、五日に過ぎざるのみ。
そのうち口をあけて笑える楽しいときは、一月の間にやっと四、五日程度だ。
天與地无窮、人死者有時。
天と地とは窮まりなく、人の死するは時あり。
天地の大自然は尽きるときはないが、人間の死は必ずやってくる。
操有時之具、而託於无窮之間、
時あるの具を操(と)りて、無窮の間に託す、
有限なこの身を無限の大自然のなかに寄せているのは、
忽然无異騏驥之馳過隙也
忽然たること騏驥の馳(は)せて隙を過(す)ぐるに異なるなきなり。
忽然とした瞬時のことで、まるで駿馬が戸の隙間を通過するようなものだ。
己の欲望を満足させ、己の寿命を養う事のできないようなやつは、
全て道に通じたものとはいえない。
お前の話す事は俺には全て無用な事だ。
とっととうせて逃げ帰れ。二度と口を利くな。
お前の教えは狂気じみてあくせしていて、いかさまの嘘っぱちばかりだ。
そんな事で本来の真実を全うできるようなものではない。
話し合う値打はない。