【貪(むさぼ)らざるを以て宝と為す】と読みまして、欲張らないことを宝として、大切に守っている、という意味で、財物よりも無欲の精神を大切にすることの喩えです。
出典は『春秋左氏傳』襄公十五年です。
宋人或得玉、
宋人(ソウひと)、玉(たま)を得る或(あ)り。
宋の人で玉を手に入れた者があって、
獻諸子罕、
諸(これ)を子罕(シカン)に獻(ケン)ず、
その玉を子罕に献上した。
子罕弗受。
子罕受けず。
すると子罕はそれを辞退して受け取らなかった。
獻玉者曰、以示玉人、玉人以為寶也。
玉(たま)を獻ずる者曰く、以て玉人(キョウジン)に示(しめ)せしに、玉人は以て寶と爲せり。
そこで玉を献上した者が、これを玉みがきの職人に見せたところ、宝玉と鑑定したので、
故敢獻之。
故に敢へて之を獻ず、と。
あなたに献上するのです。
子罕曰、我以不貪爲寶、爾以玉爲寶。
子罕曰く、我は貪らざるを以て寶と爲し、爾(なんじ)は玉を以て寶と爲す。
子罕が言いました、私は欲張らないことを宝としておりますし、あなたは玉を宝としております。
若以與我、皆喪寶也。
若し以て我に與へば、皆寶を喪ふなり。
もしもあなたがその宝とする玉を私に与えたならば、お互いに宝を失うことになります。
不若人有其寶。
人々其の寶を有するに若かず、と。
めいめい宝を持っていることにこしたことはありません、と。