永遠に歩き続ける旅人のたとえですが、永久に絶えること無くつづく時間・年月のことを言います。
【百代過客】を漢音読みしますと【ハクタイのカカク】、呉音読みしますと【ヒャクダイのカキャク】となります。
李白の『春夜(シュンヤ)宴桃李園(トウリエンにエンす)序』のなかに【百代過客】がでてきます。
夫れ天地は萬物の逆旅(ゲキリョ)にして
そもそも天地は万物を迎え入れる旅籠(はたご)のようなもの
光陰は【百代の過客】なり
光陰は【永遠の旅人】のようなものだ
而して浮生(フセイ)は夢の若し
そして人生とははかない夢のようなもの
歡(カン)を爲(な)すこと幾何(いくばく)ぞ
楽しさも長続きはしない
古人燭(ショク)を秉(と)り夜遊ぶ
古人は燭をともして遊んだというが
良(まこと)に以(ゆえ)有る也
それは 理由(わけ)あってのこと
況(いわ)んや陽春の我を召すに煙景を以てし
いわんや陽春は美しい景色で私を招き
大塊(タイカイ:造物主)の我を假すに文章を以てするをや
宇宙万物の造物主が私に詩文を作る才能を授けてくれたのだ
芭蕉は李白の『春夜宴桃李園序』を引用して、『奥の細道』を次のような書き出しで始めています。
月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり。
舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらえて老を迎うる者は、
日々旅にして旅を栖(すみか)とす。
そして奥羽の旅へ出かけました。
『奥の細道』よりも10年前に、井原西鶴の『日本永代蔵』に李白の【百代過客】が引用されているそうです。
されば天地は萬物の逆旅。光陰は百代の過客、浮生は夢幻といふ。
江戸期の人達の琴線に触れるものがあったようです。