愚(おろ)かな者でも、多くの考えの中に一つぐらい、的を得た考えがあるということを表す四字熟語です。
『史記』淮陰(ワイイン)侯伝のなかに出て来ます。
B.C.204年の【背水之陣:今日の四字熟語No.251】のあと、韓信はさらに北の燕、東の齊を伐つため敗軍の将として生け捕りにされた、趙のすぐれた兵法家・広武(コウブ)君に意見を求めました。
広武君は辞謝して言いました
私は『敗軍の将は武勇について語るべきではなく、
亡国の大夫一国の存立について図るべきではない』と聞いております。
いま私は敗軍の虜囚です。どうして大軍を謀る資格がありましょか。
韓信はさらに強いて
心を委ねてあなたの計に従うから、どうか、遠慮しないでもらいたい。
それならばと、広武君は言いました
私は【知者も千慮(センリョ)に必ず一失あり、愚者も千慮に必ず一得あり】と聞いております。
ですから、『狂人の言葉であっても、聖人はこれを選択する』と申すのです。
多分、私の計は必ずしも用いられる価値がないかもしれませんが、誠心を披瀝しましょう。
その後、広武君の意見も取り入れ、他にもいろいろありましたが、一時 韓信は「齊王」になりました。