【虎豹(コヒョウ)の文(ブン)は田(かり)を來たす】と読みまして、虎や豹の皮の美しい模様が、人に狩猟を行わせるということから、才能のある者がその才能の故に災難を招くたとえです。
出典は『荘子』應帝王篇です。
陽子居(ヨウシキョ)が老聃(ロウタン)に面会してたずねました、
ここに一人の人物がおります、敏捷(ビンショウ)強健(キョウケン)、思慮がゆきわたって聡明で、
怠りなく道を学んでいます。このような人物は、明徳の王者にも並べられるでしょうか。
老聃曰、是於聖人也、胥易技係、
老聃(ロウタン)曰く、是れ聖人に於けるや、胥易(ショイ)技係(ギケイ)、
老聃は答えた、それは(明徳の王者といった)聖人からすると、つまらないことに思慮を
めぐらし、仕事にとらわれ、
勞形懼心者也。
形を勞し心を懼(おそれ)しむる者なり。
身を苦しめて心をさいなんでいる者だ。
且也虎豹之文來田、
且つ虎豹の文は田(かり)を來たし、
それに、虎や豹はその毛皮の美しさのために、狩猟を招くことになり、
猨狙之便執狸之狗來藉。
猨狙(エンソ)の便と、狸を執(とら)うるの狗とは藉(つな)がるることを來(き)たす。
敏捷な猿と、狸をとらえる狗とは、そのためにかえって人につながれることになる、
如是者、可比明王乎。
是(か)くの如き者は、明王に比すべけんやと。
そんな人物がどうして明徳の王者に並べられようか。