【浮生(フセイ)は夢のごとし、歓(カン)を為すこと幾何(いくばく)ぞ。】と読みまして、
はかない人生は夢のようであり、喜び楽しむ時間はどれほどあるのでしょうか、という意味になります。
出典は李白の『春夜宴桃李園序』によります。かなり長い詩です。
松尾芭蕉『奥の細道』の冒頭「月日は百代の過客にして、行き交ふ年も又旅人也。」は、
この書き出しを下敷きにしています。
夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客。
夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり。
そもそも天地は万物を迎え入れる宿であり、時の流れは永遠の旅人です。
而浮生若夢、為歓幾何。
而して浮生は夢のごとし、歓を為すこと幾何ぞ。
そしてはかない人生は夢のようであり、喜び楽しみはどれほどあるのでしょうか。
古人秉燭夜遊、良有以也。
古人燭を秉りて夜遊ぶ、良に以有るなり。
昔の人は、火を灯して夜中まで遊んだが、もっともなことです。
況陽春召我以煙景、大塊仮我以文章。
況んや陽春我を召くに煙景を以てし、大塊の我に仮すに文章を以てするをや。
ましてや春の陽気が霞たなびく春景色で私のことを招き、
天が私に文章を書く才能を授けてくださったのですから、
会桃李之芳園、序天倫之楽事。
桃李の芳園に会して、天倫の楽事を序す。
桃や李の香りが芳しく香る庭園に集まって、兄弟親族と楽しい宴を催します。
群季俊秀、皆爲恵連。
群季の俊秀は、皆恵連たり。
優れた詩の才能をもつ弟たちは皆、謝恵連のようです。
吾人詠歌、独慚康楽。
吾人の詠歌は、独り康楽に慚(は)づ。
ひとり私の詠む歌だけは、(謝惠連の兄である)謝靈運に及ばずに恥ずかしく思います。
幽賞未已、高談転清。
幽賞未だ已まず、高談転た清し。
静かに風情を褒め楽しむことはまだ終わることなく、
高尚な話はますます清らかになっていきます。
開瓊筵以坐花、飛羽觴而酔月。
瓊筵を開きて以て花に坐し、羽觴を飛ばして月に酔ふ。
立派な宴を開いて花の下に座り、盛んに盃をかわして、月を眺めながら酔います。
不有佳作、何伸雅懐。
佳作有らずんば、何ぞ雅懐を伸べん。
優れた詩ができなければ、どうして風流な思いを述べることができましょうか。
如詩不成、罰依金谷酒数。
如し詩成らずんば、罰は金谷の酒数に依らん。
詩ができなければ、罰として金谷園の故事にならって酒三杯を飲ませましょう。