他の山から採れた粗末な石でも、自分の山で採れた、ないしは自分の持っている玉(ギョク)を磨くのに役に立つということを表す言葉です。
自分に直接関係のないものでも、自分を向上させるのに役立つというたとえでもあります。
『詩経・鶴鳴』に
他山の石 以て錯(サク)と為すべし。他山の石 以て玉を攻(おさ)むべし、と二度記載されています。錯、攻 2字とも磨くという意味で使われています。
『言志耋録』第184條に具体的にかかれています。
人有同於我者。
人我れに同じき者有り。
世間には性格や趣味が自分と同じ人がいる。
可與交、而其受益不太多。
与(とも)に交る可(べ)けれども、而も其の益を受くること太(はなは)だ多からず。
こういう人と交際するのは勿論よいことだが、
たいして益を受けることはないものだ。
有不同於我者。
我れに同じからざる者有り。
(反対に、)自分とは性格趣味の違う人がいる。
亦可與交
亦(また)与に交る可けれども、
こういう人々と交際するのは良いことで、
而其益則匪尠。
而(しか)も其の益は則ち尠(すくな)きに匪(あら)ず。
しかも交際すると自分の為になることが多いものだ。
他山の石、可以磨玉、即是。
他山の石、以て玉を磨く可し、とは、即ち是れなり。
他山の粗石でも我が玉を磨くには十分役に立つ、とはこういうことを言うのである。