【今の是(ゼ)にして昨(サク)の非なりしを覚(さと)る】と読みまして、今が正しくて昨日までは間違いであった、という意味です。
考え方や状況などが変わったので、昨日までのことは誤りであったと悟り、更に後悔していることを表しています。
出典 は陶淵明(トウエンメイ)の「帰去来辞:キキョライのジ。帰りなんいざ」です。
歸去來兮
歸りなんいざ
さあ、帰ろう
田園將蕪胡不歸
田園 將(まさ)に蕪(あ)れなんとす 胡(なん)ぞ歸らざる
田園は今や荒れ果てそうだ、帰らずにいられようか。
既自以心爲形役
既に自ら心を以て形の役と爲す
いままで生活のために心を犠牲にしてきた、
奚惆悵而獨悲
奚(なん)ぞ惆悵(チュウチョウ)して獨(ひと)り悲しむ
どうしてくよくよと一人悲しむのか。
悟已往之不諫
已往(イオウ)の諫(いさ)めざるを悟り
過ぎし日は取り返しがつかぬものと知ったが
知來者之可追
來者の追ふ可(べ)きを知る
これからは自分のために生きよう
實迷途其未遠
實(ジツ)に途に迷ふこと 其れ未だ遠からずして
まさしく道に迷ってもまだそう遠くは離れていない
覺今是而昨非
覺(さと)る 今は是にして 昨は非なるを
今が正しくて昨日までは間違いであった、
舟遙遙以輕颺
舟は遙遙(ヨウヨウ)として 以て輕く颺(あが)り
船はゆらゆらとして軽く舞い上がり
風飄飄而吹衣
風は飄飄(ヒョウヒョウ)として 衣を吹く
風は飄飄として、衣に吹いてくる
問征夫以前路
征夫(セイフ)に問ふに 前路を以ってし
船頭に尋ねるのはこの先の路
恨晨光之熹微
晨光(シンコウ)の熹微(キビ)なるを恨(うら)む
恨むらくは朝の光のほの暗いこと。
『帰去来兮辞』は陶淵明が41歳のとき、官を辞して田舎に引きこもります。その時の気持ちを歌ったものです。本文は四段から構成されていて、一段目は、はやる心で帰路に赴く様子を描いています。上記が一段目です。
因みに、「帰去来兮」を「帰りなんいざ」と訓読したのは菅原道真である、と言われています。