【神に盟(ちか)い、湯(ゆ)を探(さぐ)る】と訓読みされます。
【盟神探湯】は『くがたち』といわれ、古代日本で行われていた神明裁判(是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法)のことです。
日本書紀の応神天皇九年四月のこと、としまして
武内宿禰(たけのうちのすくね)が弟の甘見内宿禰(うましうちのすくね)の讒言で殺されそうになり、武内宿禰が潔白を主張したので、応神天皇は2人に礒城川(しきのかわ)で【盟神探湯】をさせたとの記事があります。
結果、武内宿禰が勝って潔白が証明されました。
同じく日本書紀の允恭(いんぎょう)天皇(在位:412年12月~453年1月)四年九月のこと、としまして、
【盟神探湯】が行われたという記載があります。
氏姓(うじかばね)を詐称する者が多く、上下の争いが目立つようになったので、天皇は詔を出しました。
「豪族や家来、それに諸国の国造たちが、あるいは天皇から分かれた傍流であるとか、あるいは我ら天皇の一族と同じように天から降臨したという伝承を語り継いでいるとか、様々に報告してきた。しかし長い年月が経ち、一つの氏から多くの氏族が分かれることもあり、その真偽は判断しがたい。そこで、あらゆる氏族の者たちに身を清めさせ、盟神探湯をさせるように」。
味橿丘(うまかしのおか)の辞禍戸碕(ことまがへのさき)に熱湯の窯を置いて、
「真実ならば無事であろう。偽りならば害を受けよ」と述べた。
真実である者は何事も無く、偽っていた者はみな傷ついたそうです。
もう一つ、継体天皇(在位:507年3月~531年3月)二十四年九月のところに、「誓湯:うけいゆ」という【盟神探湯】が行われたという記載があります。
【盟神探湯】の記録は、その後見当たらないのですが、900年後の室町時代応永年間になると再び記録に表れました。この時代には「湯起請:ゆきしょう」という名で呼ばれました。特に『籤引き将軍』と言われた足利義教は政治的裁判にしばしば【盟神探湯】を用いたそうです。
これを最後に【盟神探湯】は歴史記録から消えました。
昔はこんなやり方が信じられていたんですね。
【盟神探湯】なんてやられたら、立候補者全員 火傷しちゃうでしょうね。