無益な情けや哀れみををかけることの譬えです。またその結果自分が痛い目にあうことを言ってます。
B.C.638年、宋の襄公(ジョウコウ:BC650年~BC637年)と楚の成王(セイオウ:BC671年~BC626年)が戦った『泓水(オウスイ)の戦い』の故事による四字熟語です。
【宋㐮之仁】は『春秋左氏伝・僖公(キコウ)二十二年』と『十八史略』に出ています。
ここでは『十八史略』の記載を掲げます。
宋(ソウ)は子姓、商紂(チュウ)の庶兄微子啓(ビシケイ)の封ぜられし所なり。
宋は子姓の国で、商(殷)の紂王の(腹違いの)兄である微子啓が封国された所です。
後世春秋に至り、襄公(ジョウコウ)玆父(ジホ)という者有り、
後、春秋時代になって、襄公茲父という人物が出て、
諸侯に覇(ハ)たらんと欲し、楚と戦う。
諸侯に対して覇者となろうと望み、楚と戦いました。
公子目夷(モクイ)、其の未だ陣せざるに及んで之を撃(う)たんと請う
君主の子である目夷は、楚軍がまだ陣型を整えないうちに出撃しようと君主に願い出ました。
公曰く、君子は人を阨(ヤク)に困(くる)しめず、と。
君主襄公は「君子とは他人を困窮させないものである」といいました。
遂に楚の敗(やぶ)る所と為る。
(そして川を渡り終えて、陣形を整えるのを待っていて)最後には楚に敗れることになりました。
世(よ)笑いて以て宋襄の仁と為す。
世間の人は笑って【宋襄の仁(宋の襄公の仁)】といいました。
宋の襄公はこの戦いで受けた傷がもとで、翌年(BC637年)亡くなりました。