規律も統制も無く、寄り集まっている集団のことを言います。
【烏合】というのは、烏(カラス)のように何のまとまりもなく、ただ集まっていると、言う意味です。
でも、最近の観察によりますと、都会の【烏合】はゴミをあさる場合、見張りやら食探しやら役割分担があるようにみえるそうです。
史書で最初に使われた【烏合之衆】は、『史記』酈生(レキセイ)・陸賈(リクカ)列伝です。
時は、秦から漢への、「項羽と劉邦」の時代。60歳を過ぎた酈生が劉邦に謁見しました。
劉邦は、女に足を洗わせながら酈生に会いました。
酈生 『あなたは秦を助けるのか、秦を攻めるのか』
劉邦 『この、儒者めが!皆が秦に苦しめられたから、諸侯が連合して秦を攻めておるのだ。
何を今さら寝言をほざいておるのだ!このドアホ!』
酈生 『義兵を集め無道の秦を誅しようとなさるのなら、足を投げ出したまま年長者を引見するなど
もってのほかですぞ!』
そう諌められた劉邦、足を洗うのをやめ、衣服をつくろい、酈生を上座に招き無礼を詫びました。
劉邦 『如何なるはかりごとが良いだろうか』
酈生 『あなたが【烏合之衆】をまとめても、その数は一万人もいません。それで秦に攻め入るなど
「虎口に探る」ようなもの。陳留の地は天下の要衝、そこへ私を使者として送ってください。
県令を降伏させたいと存じます』
【烏合之衆】二度めの登場は、『後漢書』列伝に記載がありました。
王奔(オウモウ)の新(A.D.8~A.D.23)が衰退して後漢が成立する間の混乱の時期でした。
後漢の初代皇帝になる劉秀が中国東北部を攻めている時、武将邳彤(ヒトウ)は敵將の王郎(オウロウ)を打つべきであることを進言したなかで【烏合之衆】が使われました。
『漢の再興は衆望(シュウボウ)です。王郎は【烏合之衆】を駆って燕・趙の地を震撼させましたが、
恐れるに足りません。いまここで、長安に向かへば味方の兵は逃げてしまうでしょう。
王郎と闘えば必ず勝ち、これを無視して長安に向かえば河北を失い、威厳を損ないます』と論じて
劉秀に受け入れられました。
邳彤(ヒトウ)の進言の後、武将耿弇(コウエン)が兵を引き連れ、劉秀の下へ馳せ参じる途中、
二人の部下が『王郎こそ漢の正しい血筋です。この方に仕えなくてどうするのです』
そこで耿弇は、「王郎なぞ、ただの賊で、わしが長安へ着いて精鋭部隊を突っ込ませたら、
王郎軍のような【烏合之衆】はひとたまりもない』 これが三度めの【烏合之衆】でした。『後漢書』列伝。
劉秀配下となった耿弇は、すべての戦いに勝ち続けた常勝将軍として知られるようになりました。
しかし耿弇は、わずか31歳にして引退、後は皇帝の顧問格として首都・洛陽にあり、たびたび皇帝の相談を受けたようです。
世情、穏やかならざる時【烏合之衆】は現れるようです。 歴史が語っています。
第三極を成そうとしている方々を【烏合之衆】などと言うつもりは毛頭ございません。