日本の南北朝時代、南朝方の忠臣児島高徳が、隠岐へ流される後醍醐天皇に奉るため、
院の庄(現在の岡山県津山市)の行在所に忍び、庭の桜樹に書き記した詩句です。
後醍醐天皇を中国の越王勾践に、自分を勾践の忠臣である范蠡に比し、天助を願い、時にはこの自分のような忠臣がおり、他日回復の機会のあることを告げた言葉です。
出典は『太平記』四、備後三郎高徳事
道もなき山の雲を凌ぎて杉坂へ着いたりければ、
道もない山の雲を凌いで杉坂へ着きましたが、
主上早や院庄(インノショウ)へ入らせ給ひぬと申しける間だ、
主上(第九十六代後醍醐天皇)はすでに院庄に入られたと申したので、
力なくこれより散々に成りにけるが、責めてもこの所存を上聞(ショウブン)に達せばやと思ひける間、
仕方なくこれより散り散りになりました、高徳はせめてこの思いだけでも伝えたいと思って、
微服潛行(ビフクセンコウ)して時分を窺ひけれども、しかるべき隙もなかりければ、
微服潛行(人目につかないよう忍び足)して時を窺いましたが、
都合のよい隙もなかったので、
君の御坐ある御宿の庭に、大きなる桜木ありけるを押し削りて、
君(後醍醐天皇)が泊まられている宿の庭に、大きな桜の木があったので削って、
大文字(おおもじ)に一句の詩をぞ書き付けたりける。
大きな文字で一句の詩を書き付けました。
天莫空勾踐 時非無范蠡
天 勾践を空(むな)しゅうすること莫かれ 時に范蠡(ハンレイ)無きにしも非ず。
天は勾践を見捨てませんでした。范蠡が助けてくれる時がきっと来ることでしょう。