無念無想の境地にいたれば火でさえも涼しく感じられるという意味です。精神の持ち方次第で、いかなる苦痛も苦しく感じなくないたとえです。
織田勢に武田が攻め滅ぼされた時、禪僧快川(カイセン)が、火をかけられた甲斐の恵林寺山門上で、
端坐焼死しようとする際に発した偈(ゲ)と伝えられています。
また、唐の杜荀鶴(トジュンカク)の「夏日(カジツ)悟空上人(ゴクウショウニン)の院に題するの詩」に同意の句があります。
無念無想の境地に至れば火さえ涼しく感じられる。 どんな苦難に遇っても、心の持ちようで苦痛を感じないでいられるの意、とありました。
偈(ゲは慣用読みです):仏の徳をほめたたえた韻文。五字または七字を一句とし、多くは四句を一偈とするそうです。
杜荀鶴(846年~ 904年)は杜牧(トボク)の末子です。
三伏閉門披一衲、
三伏(サンプク)門(モン)を閉(と)ざして一衲(イチノウ)を披(ひら)く
夏の暑さの最も厳しい時、門も閉め、僧衣を着て、
兼無松竹蔭房廊、
兼(か)ねて松竹(ショウチク)の房廊(ボウロウ)を蔭(おほ)ふ無(な)し
その上、松や竹などの木が、屋敷内を木陰で覆うということもない
安禪不必須山水、
安禪(アンゼン)は必(かなら)ずしも山水(サンスイ)を須(もち)いず
心の安らぎを得るためには、静かな山や川といった環境が必要、というわけではない
滅卻心頭火亦涼
心頭を滅卻すれば 火も亦涼し
暑いと思う心を無くすることができれば、火でさえも涼しく感じることが出来るのである。
杜荀鶴のこの詩の、安禪不必須山水、滅卻心頭火亦涼、が12世紀・中国北宋時代に編纂された
禪宗の古典『碧巌録』の第43則・評唱に採られました。