人の話を何回も聞くよりも、実際に自分の目で確かめるのが大事であるということを表す四字熟語です。
【百聞一見】は、『漢書』趙充国(チョウジュウコク)伝に出ています。
上遣(つか)わして問わしめて曰く、
天子(前漢の宣帝)が使者をつかわして、尋ねた。
「将軍、羌虜(きょうりょ)を度(はか)ること何如(いかん)、
「将軍(趙充国)は、(漢に反旗を翻(ひるがえ)した)羌の異民族の勢力が
どれほどであると思うか。
當(まさ)に幾人を用うべきか?」
また反乱を鎮圧するには、どれほどの兵力が必要であろうか」と。
充国曰く、
趙充国は答えた。
「百聞(ひゃくぶん)は一見に如(し)かず。兵は踰(はるか)に度(はか)り難(がた)し。
「百聞は一見に如かず。軍事は現地を遠く離れては、はかりがたいものです。
臣願わくば馳せて金城に至り、図(えが)きて方略を上(たてまつ)らん。」
願わくば、私が自ら金城にかけつけ、現地の地形を図に描き、それから方策をたてまつりたく
存じます」と。
趙 充国(チョウジュウコク:B.C.137年 ~ B.C.52年)は、武帝(B.C.141B.C.87)昭帝(B.C.87B.C.74)、宣帝(B.C.74B.C.49)三代に仕えた軍人です。
武帝の時には将軍・李広利(リコウリ)に従って匈奴と戦い、二十余りの傷を負いながらも窮地に陥った軍を救う功績をあげました。昭帝の時代にも戦功をあげ、将軍に抜擢(バッテキ)されました。
B.C.61年 宣帝の時代、羌(キョウ)というチベット系の遊牧民に派遣した使者が高圧的なやり方をして失敗したことから、羌との間に紛争が生じました。
宣帝が趙充国に「紛争を鎮定するために、誰を将軍に任じるべきか」と諮問したところ、
趙充国は当時七十才を過ぎていましたが、「私にまさる者はおりません」と堂々と答えました。
【百聞一見】は、その時の言葉です。
結果、趙充国は現地に行き、自己の【一見】により見事羌族を鎮圧しました。
【百聞一見】の言葉に続けて、後世
百聞は一見にしかず・・・・いくら人から聞いても、自分で見なければ本当のことはわからない。
百見は一考にしかず・・・・いくらたくさん見ても、自分で考えなければ前に進まない。
百考は一行にしかず・・・・どんなに考えても、自分で行動を起こさなければ前には進まない。
百行は一果にしかず・・・・どんなに行動をしても、成果を残さなければ成長しない。
とも言われているようです。