これまでの考えを改め、あることを成し遂げようとして、一大決心することを表す四字熟語です。
『歎異抄:たんにしょう』の14章のところに【一念発起】の言葉が出ています。
『歎異抄』は、鎌倉時代後期に書かれた仏教書です。作者は、親鸞に師事した唯円(ゆいえん)とされていますが他の人という説もあります。
『親鸞』が亡くなってから教団内での異義・異端を嘆(なげ)いて、作者が『親鸞』から直接聞いた話としてまとめたものが『歎異抄』と言われています。
『歎異抄』は、成立当初の間ほとんど知られていませんでした。江戸時代中期になって、荻生徂徠(おぎゅうそらい)や本居宣長(もとおりのりなが)などの影響によりまして発見されたそうです。明治時代になり、清澤満之(きよざわまんし)らによって、世間に周知されるようになりました。
なにせ、約700年も前の古文です。読むのが大変です。一応〔原文〕を掲げましたが、〔原文〕の後に五木寛之さんの『私訳 歎異抄』を掲げておきました。そちらを先に詠まれて原文に戻られた方が、理解しやすいと思います。
〔原文〕
一念に八十億劫(オクゴウ)の重罪を滅すと信ずべしということ。
この条は、十悪五逆の罪人、日ごろ念仏をもうさずして、命終(ミョウジュウ)のとき、はじめて善知識のおしえにて、一念もうせば八十億劫のつみを滅し、十念もうせば、十(と)八十億劫の重罪を滅して往生すといえり。
これは、十悪五逆の軽重をしらせんがために、一念十念といえるか、滅罪の利益なり。
いまだわれらが信ずるところにおよばず。
そのゆえは、弥陀の光明に照らされまいらするゆえに、【一念発起】するとき、金剛の信心をたまわりぬれば、すでに定聚(ジョウジュ)の位におさめしめたまいて、命終(ミョウジュウ)すれば、もろもろの煩悩(ボンノウ)悪障(アクショウ)を転じて、無生忍(ムショウニン)をさとらしめたまうなり。
五木寛之さんの『私訳 歎異抄』第14章の一部です。
人によっては、「臨終の際、ただ一度の念仏によって、永遠に苦しむべきすべての自己の罪業が救われる」と 信じている人がいる。
つまり、たとえ極悪人で、ふだんは念仏をしていなくとも、いのち尽きようとする際に仏法の教えを受け、心がけをかえて念仏をすれば、一度の念仏で永遠にも近いほど苦しむべきすべての重罪から救われ、十回の念仏ではその十倍の罪が滅せられるという考えである。
つまり念仏に、罪をなくす利益がある、という見方である。これはわたしたちが信じるところではない。
【念仏をしようと思いたったとき】、その信心は、阿弥陀仏からのはたらきかけによって生じ、阿弥陀仏の力によってなされるものである。その時点ですでに仏の光明に照らされているのだ。
だからこそ死ねば執着を脱し、罪をぬぐい、浄土に導かれるということである。