疑いの心があると、何でもないことまで疑わしく感じることの譬えです。
出典は『列子』説符第八篇です。チョット長いですが、全文を掲げます。
人有亡鈇者、意其鄰之子、
人に鈇(おの)を亡(うしな)へる者有り、其の隣の子を意(うたが)ふ。
ある男が斧をなくしました。男は、隣の息子が盗んだのではないかと疑いました。
視其行歩、竊鈇也。
其の行歩(コウホ)を視るに、鈇(おの)を窃(ぬす)めしものなり。
歩きかたを見ると、いかにも斧を盗んだように見えます。
顏色竊鈇也。
顔色も鈇(おの)を窃(ぬす)めしものなり。
顔色も、いかにも斧を盗んだように見えます。
言語竊鈇也。
言語も鈇(おの)を窃(ぬす)めしものなり。
物の言い方も、いかにも斧を盗んだように見えます。
動作態度、無爲而不竊鈇也。
動作・態度、為すとして鈇(おの)を窃(ぬす)めしものにあらざる無し。
その他の動作・物腰、することは一つとして、斧を盗んだ人のしぐさでないものはありません。
俄而抇其谷、而得其鈇、
俄(にはか)にして其の谷を抇(ほ)って、其の鈇を得たり。
しばらくしてから谷間を掘り返したところ、その斧が出て来ました。
他日復見其鄰人之子、動作態度、無似竊鈇者。
他日復(ま)た其の隣人の子を見るに、動作・態度、鈇を窃(ぬす)めしものに似たる者無かりき。
後日、また隣の息子を見ると、
動作や態度に斧を窃(かす)めた人物と疑うような、怪しい点はなくなっていた。
以上が『列子』の本文です。ここでは【疑心暗鬼】の言葉は出て来ません。
四字熟語として、【窃鈇之疑:セップのギ】が知られています。
【疑心暗鬼】の四字熟語は、林希逸(リンキイツ:1193年~1271年)と言う、宋代の儒学者が
『沖虚(チュウキョ)至徳真経(シトクシンキョウ)鬳斎口義(ケンサイクギ)』という書物で『列子』の
【窃鈇之疑】について注釈しているところに【疑心暗鬼】がでてきます。
読み下し文は次の通りです。
此章猶諺言。諺曰、疑心生暗鬼也。
此の章は猶(な)お諺言(ゲンゲン:ことわざ)のごとし。諺(ことわざ)に曰く、
【疑心、暗鬼を生ず】と。
心有所疑、其人雖不竊鈇、
心 疑(うたが)う所(ところ)有れば、其の人鈇(おの)を窃(ぬす)まずと雖(いえど)も、
而我以疑心視之、則其件件皆可疑。
我(われ)疑心を以て之を視れば、則ち其の件件(ケンケン)皆疑う可し。