隠しだてをすればするほど、世間に知られて噂の種となる、と言う意味です。
『中庸』の第1章に出ています。この第1章は『中庸』の主要テーマ、【性】、【道】、【教】を簡潔に定義づけしたものと言われています。
天命之謂性、
天の命ずるをこれ性と謂い、
天が命令する(ように人に与えた)ものを性(本姓、あるがままの性)といい、
率性之謂道、
性に率(したが)うをこれ道と謂い、
性に従う(ことによっておのずと現れてくる)ものを道(道理)といい
修道之謂教。
道を修むるをこれ教えと謂う。
その道を修得することを『教え』というのである。
道也者、不可須臾離也。
道は須臾(シュユ)も離るべからざるなり。
道というものは、(いつでもどこにでもあるもので)ほんのしばらくの間も
人から離れることのないものである。
可離非道也。
離るべきは道に非ざるなり。
離れられるもの、そんなものは道ではない。
是故君子戒慎乎其所不睹、
是の故に君子は、その睹(み)ざる所をに戒慎(カイシン)し、
こういうわけで、教養人は(つねに道理を畏れつつしむ心を持ち)見えないものでも戒め慎み、
恐懼乎其所不聞。
その聞かざる所に恐懼(キョウク)す。
聞こえないものでも恐れ慎むのである。
莫見乎隱、
隠れたるより見(あら)わるるは莫(な)く、
(ものごとは)隠しだてをすればするほど、世間に知られて噂の種となる、
莫顕乎微、
微(かす)かなるより顕(あき)らかなるは莫(な)し。
(それに)微小なことほどかえって露見しやすいものである。
故君子慎其独也。
故に君子はその独りを慎しむなり。
(そこで)教養人は(いつも道を思って公明正大、あいまいな隠しごとなどは避けて)
内なる己れ自身を謹慎して修めるのである。