【応接に暇(いとま)あらず】と訓読みされます。
物事が次から次へと起こって、いちいち対応しきれないことを言います。
『世説新語』言語篇にこの【応接に暇あらず】の言葉が出てきますが、そこでの忙しさは少々違っていまして、むしろ風流な趣さえ感じられます。
晉(シン)の王献之(オウケンシ)が道中での紅葉を愛でている場面に【応接に暇あらず】が使われています。
王子敬云、從山陰道上行、
王子敬(王献之のこと)云ふ、山陰道上より行けば、
王子敬はいった、山陰道を歩いて行くと、
山川自相映發、
山川自(おのづか)ら相(あひ)映發(エイハツ)し、
山や川が互いに映え合って、
使人應接不暇。
人をして【応接に暇あらざらしむ】。
いちいち応接に暇がないほどである。
若秋冬之際、尤難為壞。
秋冬の際の若(ごと)きは、尤(もっと)も懐(カイ)を為し難し、と。
特に秋から冬にかかるころは、とくにたえられぬ思いがする。
王献之は、書聖(ショセイ)王羲之(オウギシ)の末の息子です。
草書、隷書にすぐれ父と共に『二王』と呼ばれています。