再び立ち上がることが出来ないほど大敗を喫することを表します。出典は『史記』高祖本紀です。
B.C.209年 秦の二代目皇帝胡亥(コガイ)元年に陳勝・呉広が挙兵したのをきっかけに群雄割拠の状態になりました。
沛(ハイ)県においては、県民が知事を殺して、劉季(リュウキ:前漢の初代皇帝劉邦のことです)を迎え、
さらに県知事になるように頼んだのであります。
その時【一敗、地に塗(まみ)れん。】の言葉を持ち出して知事就任を断ります。
劉季曰、天下方擾、諸侯竝起。
劉季(リュウキ)曰く、天下方(まさ)に擾(みだ)れ、諸侯並び起る。
劉季は言いました、天下はまさに乱れて、諸侯が蜂起している。
今置將不善、
今、将を置くこと善からずんば、
いま、大将を置くのに、その任に堪えない者をおけば、
壹敗塗地。
一敗、地に塗れん。
一たび破れて、収拾の付かないことになるだろう。
吾非敢自愛、
吾、敢えて自ら愛するに非ず、
私は自分の命が惜しいから言う訳じゃないが
恐能薄不能完父兄子弟。
能(ノウ)薄くして父兄子弟を完(まっと)うすること能(あた)わざらんことを恐る。
才能がなくて、あなたがた父兄子弟を安全に保つことが出来ないのを恐れるのだ
此大事。
此れ大事なり。
これは大事なことなのだ。
願更相推擇可者。
願わくは更に相推(お)して、可なる者を択(えら)べ、と。
改めて誰かを推薦して、適任者を撰ばれよ。
と謙遜して言いました。しかし、県民の意向で、結局劉季(劉邦)が沛県知事になったのです。
週刊文春が、総理の長男らが総務省の幹部を接待した際の会話をすっぱ抜いたのですが、
その中で「一敗地に塗れる」が使われていました。
「いやぁ、でも(彼は)どっかで一敗地に塗れないと、全然勘違いのままいっちゃいますよねぇ」