人は習慣や心がけ次第で、善人にも悪人にもなるということの、喩です。
【岐に哭し】は、中国の戦国時代、楊朱(ヨウシュ)が分かれ道に来て、人はみな同じように生まれてもその選択次第で、どちらにも行くことができるように、心がけ次第で善人にも悪人にもなってしまうことを嘆いて泣いたという故事から。
【練に泣く】は、同じく中国の戦国時代、墨子(ボクシ)が、白い糸がどんな色にも染まるように、人は習慣や環境によって、善人にも悪人にもなってしまうと嘆いたという故事から。
出典は『淮南子』説林(ゼイリン)訓です。
楊子見逵路而哭之、
楊子(ヨウシ)逵路(キロ)を見て之(これ)を哭す。
楊子が岐路を見て哭したのは、
為其可以南可以北。
其の以て南すべく、以て北すべきが為(ため)なり。
南にも行け北にも行けるからである。
墨子見練絲而泣之、
墨子(ボクシ)練絲(レンシ)を見て之に泣く、
墨子が練り絲(柔らかく白くなった絹糸)を見て泣いたのは、
為其可以黄可以黒。
其の以て黄にすべく、以て黒にすべきが為なり。
黄色にもでき黒にもできるからである。