木の根に水をやらないで、枝に注ぎかける、という意味から、大切でない部分に心を奪われて、物事の根本を忘れることを言います。出典は『淮南子』泰族(タイソウ)訓です。
『淮南子』(エナンジ)は、前漢の武帝の頃、淮南王劉安(リュウアン。紀元前179年~紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書です。日本へは古い時代から入ったため、漢音の「ワイナンシ」ではなく、呉音で「エナンジ」と読むのが一般的になっています。劉安は漢の高祖(劉邦)の孫です。
今不知事脩其本、
今、其の本を脩(おさ)むるを事(こと)とするを知らずして、
もし根本を修養すべきことを知らず
而務治其末
其の末を治むるを務(つと)むるは
末端を治めることに努めれば
是釋其根、而灌其枝也。
是(こ)れ其の根を釋(す)てて、其の枝に灌(そそ)ぐなり。
これは、木の根に水をやらないで、枝に水を注ぎかけるようなものだ。
原文は次のように続きます。
且法之生也,以輔仁義。
且つ法の生ずるや、以て仁義を輔(たす)く。
そもそも法の発生は、仁義を補佐するためであった。
今重法而棄仁義、
今、法を重んじて仁義を棄つるは、
もし法を重んじて仁義を棄てるなら、
是貴其冠履、
是れ其の冠履(カンリ)を貴(たっと)び、
それは冠や履を貴んで
而忘其頭足也。
其の頭足を忘るるなり。
頭や足を忘れるようなものである。
故仁義者,為厚基者也
故に仁義は、基を厚くするを為す者なり。
仁義とは、基(自身)を厚くするのに役立つものである。