非常に待ち遠しい思いでいることを表す四字熟語です。
【一日千秋】としての四字熟語は中国古典にはありません。【一日三秋】が『詩経』に出ていまして、これを強調するために【千秋】となったようです。
『詩経』王風(オウフウ)・采葛(サイカツ)というところに出ています。
彼(か)の葛(カツ)を采(と)らん
あそこの葛(くず)を採ってきます(と口実に)
一日(イチジツ)見(あ)わざれば 三月(サンゲツ)の如(ごと)し
(出かけてみたが、彼はいない)一日会えないだけで、まるで三カ月のように感じます。
彼の蕭(ショウ)を采らん
あそこの蕭(かわらよもぎ)を採ってきます(と口実に)
一日見わざれば 三秋(サンシュウ)の如し
(出かけてみたが、彼はいない)一日会えないだけで、まるで秋を三度重ねたように感じます。
彼の艾(ガイ)を采らん
あそこの艾(よもぎ)を採ってきます(と口実に)
一日見わざれば 三歳(サンサイ)の如し
(出かけてみたが、彼はいない)一日会えないだけで、まるで三年のように感じます。
春の草摘みをする乙女たちの、仕事に託(かこつ)けた恋のうたです。
会えぬことの切なさが、【三秋】を【千秋】に換えてしまったようです。
古代の中国人は大袈裟な表現がお好きのようです。
【一日三秋】よりは【一日千秋の思い】のほうが、実感がこもってて、いいですよね。
『詩経』はすべて作者不詳です。古代中国人の思いの長(た)けが自由に素直に述べられています。
『論語』にも、
詩三百、
詩経の詩三百篇は(作者も異なり、詠われる内容も様々であるが)、
一言(イチゲン)以(もっ)て之(これ)を蔽(おお)う、曰く、思い邪(よこしま)なし
一言(ひとこと)で言うならば「誠からの心」といえる。
加齢により網膜の中心部である黄斑に障害が生じ、見ようとするところが見えにくくなる病気として、『滲出型加齢黄斑変性』といわれている病気があるそうですが、これに『iPS細胞』による治療が、2~3年のうちに可能とか。
まさに『一日千秋の思い』です。