ひと朝と、ひと晩の意味から、きわめて短い時間のことをいいます。
多くの場合【一朝一夕】は、次に打ち消しの表現が来ることが多いようです。
例えば 島崎藤村の『夜明け前』に
旅人を親切にもてなすことは、古い街道筋の住民が一朝一夕に養い得た気風でも無い。
とあります。
中国古典での、出典は『周易(シュウエキ)上経』坤(コン)文言(ブンゲン)伝です。
少し長い文章ですが「読み下し文」と「口語訳」を記載しました。
積善(セキゼン)の家には必ず余慶(ヨケイ)有り。
善い行いを積み重ねた家では、善いことが子孫に及びます。
積不善(セキフゼン)の家には必ず余殃(ヨオウ)有り。
善くない行いを積み重ねた家には、必ず善くないことが子孫に及びます。
臣(シン)にして其(そ)の君(きみ)を弑(シイ)し、子にして其の父を弑するは、
臣下の身で君主を殺したり、子が親を殺したりするのは、
【一朝一夕】の故に非ず。
決して、きのう今日 急に起こった事ではない。
其の由(よ)りて来たる所の者は漸(ゼン)なり。
その訳は、積もり積もってそうなったのであり
之(これ)を弁(ベン)じて早く弁ぜざるに由るなり。
早いうちに、その訳を見極めて適当な処置をとらなかった結果なのである。
易に曰く、霜を履(ふ)みで堅氷(ケッピョウ)至る、と。
易に『霜を履(ふ)んで堅氷(ケンピョウ)至る』というのは、
蓋(けだ)し順なるを言えるなり。
つまり物事は積もり積もって大きくなるということを言ったものである。
積善(セキゼン)の家には必ず余慶(ヨケイ)有り。の部分は
【積善余慶(セキゼンのヨケイ)】という四字熟語になっています。
積不善(セキフゼン)の家には必ず余殃(ヨオウ)有り。の部分は
【積悪余殃(セキアクのヨオウ)】という四字熟語になっています。
善きにつけ悪しきにつけ、積み重ねなんでしょうね。
【一朝一夕】に成るものはないと、思った方がいいんでしょうかね。