人と生れて五十歳になっても、世の人に認められるような功績があげられなかったことを恥ずかしく思う。
康暦の政変(1379年)で、管領細川頼之(ほそかわよりゆき)が管領職を斯波義将にとって代わられ、領国讃岐に帰る時に詠まれた『海南行』の起句です。
人生五十愧無功 人生五十 功無きを愧(は)ず
五十年生きてきて、功績がないことをはじる。
花木春過夏已中 花木 春過ぎて 夏已(すで)に中(なか)ばなり
春も過ぎてしまい、夏もとっくに半ばになっている。
満室蒼蝿掃難去 満室の蒼蝿(ソウヨウ) 掃えども去り難し
部屋のアオバエ、煩く、追い払っても去ろうとしない
起尋禅榻臥清風 起(た)って禅榻(ゼントウ)を尋ねて 清風に臥(ガ)せん
隠棲の場所、禅寺を見つけに出かけよう。
足利尊氏が室町幕府を開いた30年後、二代目将軍義詮が臨終に及び、時の管領頼之を呼び寄せ、まだ11歳の義満(三代将軍)の教育を託しました。
しかし年若い義満は頼之の誠意ある諫言を快く思わないことが多く、加えて周囲の家臣たちが、義満と
頼之の血縁以上の主従関係や武将としての抜群の才能を妬み、その離間策を企てる動きが起きました。
頼之は遺命の達し難いことを悟り、1379年に管領を辞職すると同時に剃髪し、常久と名を改め、京を去り領国讃岐に帰りました。51歳。この詩はその時の作と言われてます。