人間の運命には、うまくいく場合と、うまくいかない場合がある。それはみな時世のいかんによるものであるから、不遇の時にも、いたずらに悲観すること無く、時を得た時にも得意にならぬが好い。『荀子』宥坐宥(ユウザ)篇
孔子が南方の楚の國に行こうとした時、その途中、陳(チン)・蔡(サイ)両国のあたりで困窮してしまいました。空きっ腹を抱えて何日も立ち往生した時、弟子の子路が、
「君子でも、こんな惨めな思いをすることがあるのですか」と、
食ってかかったところ、孔子は次のお話しをして子路の不満をなだめたそうです。
賢不肖者材也、
賢不肖(ケンフショウ)なる者は材(ザイ)なり、
賢人か愚か者かは素質に関わることであり、
為不為者、人也、
為(イ)不為(フイ)なる者は、人なり、
行うか行わないかは個人個人の問題であり
遇不遇者時也、
遇(グウ)不遇(フグウ)なる者は時なり、
栄達するか不遇に終わるかは時世に関わることであり、
死生者命也。
死生なる者は命なり。
死か生かは運命の問題である。
今有其人、不遇其時、
今其の人有るも、其の時に遇(あ)はざれば、
もし然るべき人物がいても、然るべき時世にめぐり合うのでなければ、
雖賢、其能行乎。
賢なりと雖(いえど)も其れ能く行はれんや。
たとい賢人でも、どうして腕を振るうことができようか。
苟遇其時、何難之有。
苟(まこと)に其の時に遇(あ)はば、何の難(かた)きことか之(こ)れ有らん。
かりにもしその時世にめぐり合ったとするなら、何の困難があろうか。
故君子博学深謀、修身端行、
故に君子は博学深謀(ハクガクシンボウ)にして、身を修(おさ)め行(おこなひ)を端(ただし)、
だから、君子は博学で思慮を深くし、わが身を修養し行為を正しくして、
以俟其時。
以て其の時を俟(ま)つ。
その然るべき時世の来るのを待つのである。