自分の心に反省してみて少しも疚しいところがない、という意味です。孔子のお弟子さんの司馬牛(シバギュウ)が、君子というのはどういう人ですか、と質問したときの会話の中に出てくる言葉です。『論語』顏淵篇
司馬牛問君子。
司馬牛(シバギュウ)、君子を問ふ。
司馬牛が、君子とはどういう人物を云うのかを尋ねました。
子曰、君子不憂不懼。
子日く、君子は憂(うれ)へず懼(おそ)れず。
孔子は、憂えもせず懼れもしないものだ、と答えました。
司馬牛が考えていた君子はもっと高遠な者と思っていたようです。
孔子の答えがあまりにも卑近であるため不思議に思って、再び質問しました
曰、不憂不懼、斯謂之君子已乎。
曰く、憂へず懼れず、斯(すなは)ち之(これ)を君子と謂ふか。
司馬牛は、人はただ憂えもせず懼れもしなければないだけで、本当に君子と
云えるのでしょうか、と重ねて尋ねました。
子曰、内省不疚、夫何憂何懼。
子日く、内に省りみて疚(やま)しからず、夫れ何をか憂へ何をか懼れん。
孔子は、もし人が自分に反省してみて、何も後ろめたいことがないならば、その人は
心配することも無かろうし、おそれることもない。
反省してみて少しも疚しいところがない、というのは君子でなければできないことのようです。